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20世紀最高のバレリーナ、 マイヤ・プリセツカヤさん89歳で死去 

20世紀最高のバレリーナ、死去 マイヤ・プリセツカヤさん 


ロシア・バレエの殿堂モスクワのボリショイ劇場で長年プリマを務め「20世紀最高のバレリーナ」と称されたマイヤ・プリセツカヤさんが2日、滞在先のドイツで心臓発作のため死去した。89歳だった。ロシア主要メディアが伝えた。

 1925年モスクワ生まれ。父がスターリンの粛清で処刑され、母は旧ソ連カザフ共和国に流刑となり、おじとおばの元で育った。18歳でボリショイ劇場に入団すると間もなく頭角を現した。一時出国を禁じられるなど共産党政権の圧力を受けながら、47年に主役を演じた「白鳥の湖」は世界的に称賛を浴びた。


■20世紀を代表するバレリーナで、モスクワのボリショイ劇場で長年プリマを務めたロシアのマイヤ・プリセツカヤさんが2日、心臓発作のためドイツの病院で死去した。89歳だった。
   
 ソ連時代の1925年、モスクワで生まれた。43年にボリショイ・バレエ団に入団。60年にボリショイのプリマとなった。得意の「白鳥の湖」で滑らかな動きと歯切れよい技を見せ、世界中のファンを魅了した。

 ユダヤ系のため、ソ連時代は西側のスパイと疑われて当局の監視下に置かれ、亡命の恐れがあるとの理由で出国を認められなかったこともあった。59年の米国公演が海外での初の本格的な舞台となった。長期間にわたって現役を続け、93年には舞踊生活50周年を記念してボリショイ劇場で踊った。

 日本には、公演などで38回訪問。2011年に日本のバレエ文化の発展に貢献したことが評価され、旭日中綬章を受けた。

 バレエ以外のジャンルでも活躍。03年には宝塚歌劇団の作品振り付けを担当した。ソ連時代に映画「アンナ・カレーニナ」に出演したこともある。


PLISETSKAYA M. "The Dying Swan" - YouTube

 

マイヤ・プリセツカヤ

マイヤ・ミハイロヴナ・プリセツカヤ(ロシア語: Майя Михайловна Плисецкая, ラテン文字表記:Maya Mikhailovna Plisetskaya, 1925年11月20日 - 2015年5月2日)は、ロシアのバレエダンサー。20世紀最高のバレリーナと称された

生い立ち

マイヤ・プリセツカヤはモスクワで、芸術家を多く輩出する有名なユダヤ人一家に生まれた。エンジニアの父の仕事の都合で、スピッツベルゲン島の学校へ通う。1938年、父親はスターリンの粛清により処刑され、サイレント映画女優だった母親はカザフスタンへ強制送致された。

マイヤは母方のおばにあたるバレリーナスラミフィ・メッセレルの養子となった。

1934年、一家は休暇のためモスクワに帰り、その期間中に、マイヤは帝室バレエ学校のエフゲニヤ・イワノヴナ・ドリンスカヤのクラスに編入する

。バレエを始めて1年目で「軍縮会議」という演目の中国人役で舞台に立つ。その後再びモスクワに戻り、教師は変わりバレリーナであったエリザヴェータ・ゲルトのもとで6年間学ぶ。1943年にバレエ学校を卒業し、ボリショイ・バレエに入団した。

2015年5月2日、89歳で心臓発作のためドイツで亡くなった。

活動歴

プリセツカヤはバレエ学校卒業後、ボリショイバレエ団にコール・ド・バレエ(群舞を担当するダンサー集団)として入団する。

このポジションに不満があったこともあり、ボリショイ劇場以外での公演に積極的に出演し経験を積む。入団1年目を終えるころに、欠員のため「くるみ割り人形」のマーシャ役に抜擢されることとなる。

アンナ・パヴロワの代表作「瀕死の白鳥」を演じ、当たり役とする。

またプリセツカヤの最大の当たり役は、「白鳥の湖」のオデット/オディール(1947年)、「眠れる森の美女」のオーロラ姫(1961年)である。跳躍の高さ、柔軟で大きく反る背中、技術の確かさ、カリスマ性すべてにおいて高く評価された。

彼女に向けられた高い賞賛とは裏腹に、劇場上層部の彼女への待遇はあまりよいものとはいえなかった。
ユダヤ人であったことが災いし、1956年の国外公演には反ユダヤ主義的風潮のなかで同行が許されなかった。

しかし、1959年に彼女が西側世界に初めて登場すると、バレエ界に大きな衝撃を与えることとなる。世界中のバレリーナは、プリセツカヤ以後、技術の完成度でも演技力でも、より高度なものを要求されることになったのである。

1958年、作曲家ロディオン・シチェドリンと結婚、翌年にはソ連人民芸術家として表彰される。

1960年、ガリーナ・ウラノワが引退すると、プリセツカヤボリショイ劇場のプリマ・バレリーナ(首席バレリーナ)に任命される。

1967年ソヴィエトで制作された『アンナ・カレーニナ』の映画版では、トヴェルスコイ公爵夫人(ヴェッツィ)を演じ、1971年には、シチェドリンの作曲、自身の振り付けによるバレエ版「アンナ・カレーニナ」を発表し、主役アンナを演じた。

他にユーリー・グリゴローヴィチ、ローラン・プティ、アルベルト・アロンソモーリス・ベジャールなどの著名な振り付け師が、彼女のために作品を振り付けている。

1980年代には、プリセツカヤシチェドリンとともに海外で過ごすことが多くなり、ローマ・オペラ・バレエや、マドリードのスペイン国立バレエの芸術監督を務める。65歳でボリショイ劇場ソリストから引退したが、その後も芸術活動を続けている。70歳の誕生日には、ベジャールの振り付けによる「アヴェ・マイヤ」を初演した。

1994年からは、自身の名を冠したマイヤ・プリセツカヤ国際バレエコンクールの審査員長を務めている。

2003年、宝塚歌劇星組公演「王家に捧ぐ歌」の振付を担当し、話題になった。

2006年、第18回高松宮殿下記念世界文化賞の演劇・映像部門を受賞した。

DVD、書籍
「闘う白鳥」(自伝)
アンナ・カレーニナ」(1967年モスフィルム製作 - DVD出版元 RUSCICO(ロシア映画評議会))